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東京地方裁判所 平成6年(ワ)21985号 判決

原告

山口英彦

右訴訟代理人弁護士

青木亮三郎

被告

イーストマン・コダック・アジア・パシフィック株式会社

右代表者代表取締役

ロバート・エル・スミス

右訴訟代理人弁護士

吉益信治

大澤英雄

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は原告に対し、一七三二万八三六一円及びうち一二九三万九〇〇〇円に対する平成四年八月六日から、うち四三八万九三六一円に対する平成六年一一月一九日からいずれも支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、原告が、被告に対し、原告は平成四年七月三〇日まで被告との雇用関係が継続していたとし、右雇用契約に基づき、同年五月一日から同年七月三〇日まで在職したことにより発生した賃金等一七四万〇三四四円、賞与四三万一三〇〇円、退職金二八万〇三四五円の合計二四五万一九八九円の支払いを求めると共に、被告が原告に早期退職特別優遇プログラムによる希望退職者募集要領(以下「本件募集要領」という。)を告知し、これに基づく希望退職を申し込む機会を与えなかったこと等が債務不履行ないし不法行為を構成するとし、そのため、これが適用された場合に原告が受けるはずであった早期退職割増金相当額一二九三万九〇〇〇円、端数賞与相当額二一万五六五〇円、有給休暇残日数の補償金相当額一七二万一七二二円の合計一四八七万六三七二円の損害を被ったとしてその支払いを求め、加えて、右早期退職割増金相当額一二九三万九〇〇〇円に対する平成四年八月六日から、それ以外の四三八万九三六一円に対する平成六年一一月一九日から、いずれも支払済みに至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求めた事案である。

一  争いのない事実等

以下の事実関係は、活弧書きで証拠を掲げたものについては、同証拠により認定し、その余のものについては、当事者間に争いがない。

1  被告は、写真感光材料及び現像用機器等の製造、加工、輸入及び販売に関する技術及び経営指導等を目的とする会社である。被告の現在の商号である「イーストマン・コダック・アジア・パシフィック株式会社」は、平成八年一月一日に変更されたものであり、変更前の商号は「イーストマン・コダック・ジャパン株式会社」であった。

2  原告は、昭和六一年四月、研究開発センター・テクニカル・ビジネス・リサーチの上級研究職員として被告に入社し(〈証拠略〉)、平成四年に退職した。

3  被告は、平成四年七月一〇日、別紙〈略〉のとおりの内容の本件募集要領を従業員に発表した。

4  原・被告間には、原告の署名のなされた、原告の退職日を平成四年四月三〇日とする内容の平成三年一二月二六日付け英文の合意書である(証拠略)(以下、「本件合意書」という。)が存在する。

5  被告は、原告の退職時期を平成四年四月三〇日とし、勤続年数六年一か月として計算・算出した金額の退職金を、原告の銀行口座に振込送金した。また、被告は、原告に対し、本件募集要領を告知しなかった。

6  被告の従業員就業規則(以下「就業規則」という。)、同賃金規定(以下「賃金規定」という。)及び同退職金規定(以下「退職金規定」という。)には、以下の各規定が設けられている(〈証拠略〉)。

(一) 就業規則

(適用範囲)

二条 この規則は、会社に勤務するすべての従業員に適用する。ただし、外国からの駐在従業員・パートタイマーなど雇用条件が特殊な者を除く。

(賃金)

四二条 従業員の賃金は、別に定める賃金規定により支給する。

(退職金)

四三条 従業員の退職金は、別に定める退職金規定により支給する。

(住宅ローン)

五五条 会社は従業員の住宅購入助成制度を設け、二〇年間借り入れ資金の利子補給を行う。

(二) 賃金規定

(適用範囲)

一条 この規定は、就業規則第四二条に基づき、従業員の賃金などについて定めたものである。ただし、外国からの駐在従業員・パートタイマーなど雇用条件が特殊なものについては本規定を適用しない。

(賃金の構成)

二条 賃金の構成は次のとおりとする。

〈省略〉

一〇条 通勤手当は、毎日通勤するもので定期券を購入する者に対し、定期券購入費に相当する金額を支給する。

(三) 退職金規定

(適用範囲)

一条 この規定は、就業規則第四三条に基づき従業員の退職金について定めたものである。ただし、外国からの駐在従業員・パートタイマーなど雇用条件が特殊な者については本規定を適用しない。

二  争点

1  原告の被告に対する平成四年五月一日ないし同年七月三〇日までの間の賃金等の支払請求権の有無。

2  被告が原告に対し、本件募集要領を告知しなかったこと等が、債務不履行あるいは不法行為を構成するか否か。

三  当事者の主張

1  争点1について

(原告)

(一) 原・被告間の雇用契約関係は、平成四年七月三〇日まで継続していた。したがって、原告は、右雇用契約関係を前提として、被告に対し、以下の各金員の支払請求権を有している。

(1) 賃金等 合計一七四万〇三四四円

〈1〉 賃金

原告の賃金は、月額八七万二六〇〇円の約束であった。原告は、被告に対し、平成四年五月分ないし同年七月分賃金として、以下の金員の支払請求権がある。

平成四年五月分 三四万五〇四〇円

同年六月分 三四万五〇四〇円

(但し、平成四年五月分及び同年六月分各賃金月額の各六〇パーセントにあたる五一万七五六〇円はそれぞれ受領済み。)

同年七月分 八六万二六〇〇円

〈2〉 住宅ローン利子補助

就業規則五五条には、前記一6(一)記載のとおりの従業員に対する福利厚生に関する規定があり、被告は、原告に対し、昭和六一年六月、同年七月分から毎月の賃金支払時に第一勧業銀行融資による原告の二〇〇〇万円の住宅ローンについて、利息の五〇パーセントを支給する旨を約束した。したがって、原告は、被告に対し、平成四年五月分ないし同年七月分の住宅ローン利子補助として、以下の金員の支払請求権がある。

平成四年五月分 五万〇九二四円

(計算式)

一〇万一八四八円×〇・五=五万〇九二四円

同年六月分 五万〇七三五円

(計算式)

一〇万一四七〇円×〇・五=五万〇七三五円

同年七月分 五万〇五四五円

(計算式)

一〇万一〇八九円×〇・五=五万〇五四五円

(円未満四捨五入)

〈3〉 通勤手当

賃金規定一〇条には前記一6(二)記載のとおりの規定があり、また、被告は、原告入社の際、原告に対し、毎月の賃金支払時に一か月の通勤定期券相当額の通勤手当を支給することを約した。原告は、自宅のある成城町から二子玉川園前まで東急バスを利用し、また二子玉川園前から市が尾まで東急電鉄を利用して通勤していたが、これに要する通勤費は月額一万一八二〇円である。したがって、原告は、被告に対し、平成四年五月分ないし同年七月分の三か間(ママ)分の通勤費として、三万五四六〇円の支払請求権がある。

(2) 賞与不足分 四三万一三〇〇円

夏期賞与は、本件合意書三項により、賃金の一・五か月分支給するものとされていたから、原告は、被告に対し、平成四年六月三〇日までに一二九万三九〇〇円の賞与支払請求権があり、原告は、被告に対し、うち、四三万一三〇〇円の支払いを請求する。(但し、同年四月分までの端数賞与八六万二六〇〇円は受領済み。)。

(3) 退職金不足分 二八万〇三四五円

原告は、会社都合により平成四年七月三〇日付けで退職したものであるが、被告の退職金規定によれば、会社都合による退職の場合、支給基準率は勤続年数が七年未満のときは、八・八、六年未満のときは七・五とされ、勤続年数は各月を一二分の一年として計算するものとされている。これに基づき平成四年五月ないし同年七月の三か月間に応じた退職金金額を算出すると、二八万〇三四五円となる。

以上合計二四五万一九八九円

(二) 原告は、平成四年四月三〇日付けで被告を退職しておらず、同年五月一日以降も雇用関係が継続している。理由は以下のとおりである。

(1) 本件合意書は、原告の退職日を平成四年四月三〇日としているが、これは、単に退職日の目安を記載したに過ぎず、退職日を確定的に定めたものではないから、右期日が到来しても、原告について、退職の効果は生じない。

(2) 本件合意書は民法九〇条により、無効である。

〈1〉 被告は、人事に関する重大な文書である本件合意書を英文だけで作成して日本人である原告に押し付け、原告の無思慮、無経験、軽卒(ママ)に乗じて署名させたものであるから、本件合意書は民法九〇条により無効である。

〈2〉 被告が、原告に対し退職勧奨を行った当時、既に、早期優遇措置のある会社都合による勧奨退職が計画されており、被告は、他の従業員には本件募集要領を適用したにもかかわらず、原告に対しては、合理的理由もないのに、他の従業員と差別してこれを適用せず、本件合意書に署名させたのであるから、この点においても、本件合意は公序良俗に違反し、無効である。

(3) 原告及び被告は、原告の退職日を平成四年七月三〇日に延期することを合意した(なお、原告は右退職日延期の合意は無効であるとも主張している。)。

(被告)

原告の被告に対する平成四年五月一日ないし同年七月三〇日までの間の賃金等その他の支払請求権は存在しない。理由は以下のとおりである。

(一) 原告及び被告は、本件合意書により、原告が平成四年四月三〇日付けで退職するとの合意をし、原告は同日付けで被告を退職したものである。

(二) 本件合意書は、英文で記載されているが、原・被告間における退職に関する交渉は、平成三年一〇月ころから継続的に行われており、本件合意書は、その結果をまとめたものに過ぎず、また、原告は十分な英文読解力を備えており、内容について十分理解した上で本件合意書に署名したものであって、被告が、原告の無思慮、無経験、軽卒(ママ)に乗じて署名させたものであるはずがなく、本件合意書は当然に有効であり、他に本件合意書が無効となる理由も存しない。

(三) 被告は、原告と、原告の退職時期を延期する旨の合意はしていない。原・被告間には、平成四年五月一日以降においても一定の関係が存したが、これは以下に述べるとおりのものであり、雇用契約関係ではない。

(1) 事実関係について

〈1〉 被告は、再就職先が決まらず苦労していた原告に懇願され、平成四年四月一日ころ、退職後二か月間(平成四年五月一日ないし同年六月三〇日まで)に限り、退職合意を前提とした恩情的措置として、労務提供義務を課すことなく、原告に賃金名目で従来の基本給の六〇パーセント相当額の金員を支給することを原告と合意した。右明示の合意が認められなくても、原告は、平成四年五月一日以降、被告に出勤せず、再就職斡旋会社であるドレーク・ビーム・モリンジャパン株式会社(以下「ドレーク社」という。)における求職活動に専念し、且つ従前の本給の六〇パーセント相当額の金員の支給を異議なく受けていたのであるから、少なくとも右の内容の黙示の合意があった。

〈2〉 また、被告は、原告から再度懇願され、原告と、平成四年六月ころ、同年七月一日から同月三〇日までの間に限り、賃金その他名目の如何を問わず、一切金銭を支払わず、また原告に就労を求めないものの、社会保険手続に限り、原告の退職日を同年七月三〇日とすることを合意した。

(2) 平成四年五月一日以降における原告と被告の関係の法的性質について

雇用契約は、当事者の一方が相手方に対して労務に服することを約し、相手方がこれにその報酬を与えることをその要素とする契約であるが(民法六二三条)、原・被告間における右〈1〉〈2〉の各合意は、いずれも労務の提供や報酬の支払いといった雇用契約の要素を欠くものであるから、雇用契約ではない。平成四年四月一日ころにおける原・被告間の合意は、法的には被告が原告の就職活動を援助するために、従前の本給の六〇パーセント相当額の金員を二か月間に限り支給するという贈与類似の無名契約である。平成四年四月末日の退職日以降も原告に被告従業員としての外形が残っていても、それは原告及び被告が、原告の再就職先を見つけるため、あえて真実に反することを知りながら残したに過ぎないものであるから、原・被告間の右各合意は、雇用契約としては仮装であり、民法九四条の通謀虚偽表示に該当し、無効である。

(四) 仮に、原・被告間の雇用契約関係が平成四年五月以降存続していたとしても、被告には、原告に対する賃金等の支払義務はない。

(1) 賃金等について

原告は、平成四年五月一日以降全く就労していないのであるから、ノーワーク・ノーペイの原則により、同日以降、被告は、本来原告に対し、賃金、住宅ローン利子補助及び通勤手当を一切支払う義務はない。被告は原告と、平成四年五月及び六月の二か月間に限り従前の基本給の六〇パーセント相当額を支払う旨の合意をしたが、これについては、履行済みである。

(2) 賞与不足分について

原告は、賞与不足分の請求根拠として、本件合意書三項を掲げているが、同条項は「平成四年四月三〇日までに割り当てられる平成四年の夏の賞与を退職金として支払う」と定めているのであり、退職期日までの端数賞与を支払うと規定しているわけではない。したがって退職期日が平成四年六月末日または同年七月三〇日に変更されたとしても、本件合意書の文言上自動的に端数賞与が増額されることにはならず、「賞与不足分」も存在しない。

(3) 退職金不足分について

前述のとおり、原告及び被告は、平成四年四月一日ころ、同年五月及び同年六月の二か月間に限り、原告に従来の基本給の六〇パーセントを支払う旨の合意をしているのであるが、これは同時に平成五年(ママ)及び同年六月の原告の月例賃金を従前の基本給の六〇パーセントに減額することをその内容とするものである。右二か月間は原告が全く就労しないことが予定されていたのであるから、本来ならば一切賃金を支払わないこととしても何ら問題がないことに鑑みれば、このような賃金減額の合意も有効である。そして、退職金規定は、退職時における基本給の月額に勤続年数に応じた支給率を乗じて算出することを定めているのであるから、原告の退職が平成四年七月三〇日であったとすれば、原告の退職金は、基本給の六〇パーセント、すなわち五一万七五六〇円×{七・五+(八・八-七・五)÷一二か月×四か月}=四一〇万五九七六円となるが、被告は原告に対し、既にこれを二七九万一〇六七円上回る六八九万七〇四三円を支払済みであるから、退職金不足分は存しない。

2  争点2について

(原告)

(一) (主位的請求)債務不履行

原告は、本件募集要領が告示された当時満五一歳であり、被告に在職していたから、右要領が適用される要件を充足していた上、会社都合による退職勧奨により退職の意思を固めていたので、右要領が告知されていれば、当然、これによる退職を希望していた。被告は、労基法三条の趣旨及び労働契約上の信義則等からして、懲戒解雇に値しない、年齢等所定の基準を満たす従業員については、差別なく退職合意の申込みを行う義務があり、本件募集要領に基づく希望退職についても、原告に申込む機会を与えるべき義務があったにもかかわらず、原告にこれを告知せず、右義務を怠ったものである。したがって被告には債務不履行が成立する。

(二) (予備的請求)不法行為

被告は、遅くとも平成三年一一月には本件募集要領を立案していたと考えられるが、その検討を開始したのが平成四年三月からであったとしても、(1)米国イーストマン・コダック株式会社(以下「米国イーストマン・コダック社」という。)では、平成元年、退職金に特別加算金を上積みして自発的退職を期待する形での大規模な人員整理を含むいわゆるリストラ計画を発表していたが、そのリストラは被告会社にも及ぶ趨勢にあり、被告が原告に対し退職勧奨をした当時、被告もそのことを知っていたし、知りうる状況にあった、(2)原告には、研究開発センターの他の社員と差別されて、退職勧奨を受けるべき正当な理由はない、(3)原告の退職につき、退職勧奨という形をとったとはいえ、その方法は、実質的に退職の強制に近かった、(4)被告が本件募集要領の検討を開始した当時、原告は被告会社に在籍し、賃金も満額支給されていた、(5)退職勧奨を受けた当時、原告は未だ五〇歳で、年齢的にも退職勧奨を受けるに相当な年齢であったとは言い難い、といった事情がある。以上に照らせば、被告が原告に退職の意思表示をさせ、結果的に本件募集要領の恩恵を剥奪した退職勧奨行為は、全体としてみると、社会的相当性を欠如するもので違法であり、不法行為を構成する。

(三) 因果関係及び損害

原告は、退職勧奨の対象とされていたのであるから、本件募集要領に基づく希望退職に応募すれば、被告に受理承認され、右要領の特別呈示条件による支給がなされることが確実であった。しかしながら、被告が本件募集要領を原告に告知しないため、原告は応募の機会を失い、右要領に基づく希望退職が受理承認されていれば受けられたはずの以下の損害を被った。

(1) 早期退職割増金相当額 一二九三万九〇〇〇円

本件募集要領六項の二は、通常の退職金額に年齢層別割増率を乗じて計算した額又は告示当時の年俸のいずれか大きい方を早期退職割増金として退職日から一週間以内に支給すると定めており、原告の場合、右両者を比較すると、当時の年俸である一二九三万九〇〇〇円の方が大きいので、原告は右金額を受給できたはずであった。

(2) 端数賞与相当額 二一万五六五〇円

本件募集要領六項の四は、平成四年七月一日以降退職日までの経過日数に応ずる賞与を退職金と一緒に支払うと定めており、冬期賞与は賃金の一・五か月分であり、当時の原告の賃金月額は八六万二六〇〇円であったので、原告は、平成四年七月一日ないし原告の退職日である同月三〇日までの間の端数賞与として二一万五六五〇円を受給できたはずであった。

(計算式)

八六万二六〇〇円×一・五×一/六=二一万五六五〇円

(3) 有給休暇残日数の補償金相当額 一七二万一七二二円

本件募集要領六項の三は、退職日時点において、年次有給の休暇未消化分があるときは、金額換算の上、補償清算すると定めており、原告は、退職時、未消化有給休暇日数が三三日、年俸が一二九三万九〇〇〇円であり、平成四年の労働日数が二四八日であったので、一七二万一七二二円を受給できたはずであった。

(計算式)

一二九三万九〇〇〇円×一/二四八日×三三日=一七二万一七二二円

合計一四八七万六三七二円

(被告)

(一) 被告が本件募集要領を計画し始めたのは、本件合意書が作成された後の平成四年三月の時点であるから、被告にはその時点で既に退職について合意していた原告に対し、本件募集要領を告知する義務はない。そもそも、本件本件(ママ)募集要領は、これを受託しない者には強制しない完全な任意退職合意であり、誰に本件募集要領に基づく退職合意の申込みを行うかは被告の自由になしうるところであり、何ら拘束をうけるものではない。したがって、被告が原告に対し、本件募集要領に基づく希望退職を申込む機会を与えなかったとしても、義務違反あるいは違法性がなく、債務不履行あるいは不法行為を構成しない。

(二) 原・被告間には、平成三年一二月二六日に平成四年四月三〇日付けで退職するとの合意が確定的に成立していたのであるから、仮に原告が本件募集要領に基づく希望退職に応募したとしても、これが受理される可能性は全くなかった。したがって、原告には、因果関係も損害もない。

第三当裁判所の判断

一  争点1について

1  本件合意書の内容について検討するに、(証拠略)によれば、本件合意書は、原告の退職日を遅くとも平成四年四月三〇日までとすることを確定的に定めた内容であることが認められる。他に、右退職日が単に目安を定めたものに過ぎないと認めるに足りる証拠はない。

2  (証拠略)が公序良俗に反し、無効であるか否かを検討する。

(一) 本件合意書における原告の署名が、原告の無思慮、無経験、軽卒(ママ)に乗じてなされたものであるか否かについて

(1) (証拠略)、原告本人尋問の結果及び前記争いのない事実等によれば、被告は、米国イーストマン・コダック社の一〇〇パーセント子会社として設立された外資系企業であり、外国人が駐在し、英語を用いて業務が行われるのが常態であって、従業員に対する通知等も英文で行われることが少なくなかったこと、原告は、研究開発センター・テクニカル・ビジネス・リサーチの上級研究職員として採用され、昭和六一年四月から本件合意書を作成した平成三年一二月までの五年以上もの間、重要な立場において就労してきていること、また、原告は、被告に入社する前、外資系企業であるテキサスインスツルメントジャパン株式会社において勤務し、右在職中、米国に所在する同社本社の米国中央研究所において勤務した他、米国大学院にも在籍していた経歴を有していたこと、さらに、原告は、原告自身の詳細な履歴書や業務に関する状況報告書を英文で作成する力を有していることがそれぞれ認められ、これらからすれば、原告は、本件合意書を作成した当時、相当程度英語の理解力を有していたことが推認される。また、被告の原告に対する退職勧奨は、平成三年一〇月末から始められ、そのころから同年一二月初旬にかけ、原告の上司である七井貞明研究開発センター所長が、原告に対し、退職日を平成四年三月末までとか、同年四月まで等として、急ぐように原告の退職を求めていたことは、原告の認めるところである上、原告本人尋問の結果によれば、原告は、平成三年一二月二〇日にも、被告の人事部門業務担当の人事部長三橋健彦(以下「三橋人事部長」という。)と退職の話をしたり、同人事部長から再就職斡旋を業とするドレーク社において再就職の準備を行うように言われ、原告自身同日ドレーク社を訪ね、同社から説明を受けていたこと、さらに、原告は、同月二六日に本件合意書を三橋人事部長から示された際、本件合意書中に原告の退職金についての記載があることを認識していたことがそれぞれ認められ、これらからすれば、本件合意書が原告の退職について記載された書面であることは、原告にとって、十分予測可能なものであったと認めることができる。

(2) 以上からすれば、原告は、内容を理解した上で、本件合意書に署名したと認めるのが相当であり、本件合意書の内容が理解できないまま署名したとする(証拠略)及び原告本人尋問における原告の供述部分は直ちに信用することができず、他に原告が、内容を理解しないまま署名したことを認めるに足りる証拠もない。そうすると、本件合意書における原告の署名は、原告の無思慮、無経験、軽卒(ママ)に乗じてなされたものとは認められない。

(二) 原告に対し、本件募集要領を適用せず、本件合意書に署名させたこと等が公序良俗に反するか否かについて

被告では、本件合意書作成時点において本件募集要領が公表されていなかった上、具体化もされていなかったことは後に認定するとおりであって、本件全証拠によるも、原告及び被告が、本件合意書の内容での取決めをなし、また、原告が本件合意書の条件を受け入れることとしてこれに署名したことが公序良俗に反すると認めるに足りる特段の理由は認められない。

(三) したがって、本件合意書に無効事由は認められず、原・被告間における退職合意は有効であると認められる。

3  原・被告間における本件合意書作成以降の関係について

(一) (証拠・人証略)、原告本人尋問の結果、前記争いのない事実等及び弁論の全趣旨によれば、本件合意書の作成された平成三年一二月二六日以降、原・被告間において、以下のような事実関係が存したことが認められる。

原告は、平成三年一二月末から被告に出社せず、ドレーク社に通い、原告の売り込み方法や履歴書の書き方及び面接の仕方の指導を受けて自己の求職活動に専念し、被告の労務を行うことはなかった。しかしながら、原告は、再就職先がなかなか決まらなかったことから平成四年三月二七日、三橋人事部長に対し、復職がかなわないのであれば、求職活動期間を六月三〇日程度まで延長し、被告従業員としての待遇を保証して欲しい旨を要望すると共に関係者に対するそのための取りなしを求める旨を記載した通知を出した。三橋人事部長は、原告の申出を受け、平成四年五月及び同年六月の二か月間に限り、原告に対し、就労はさせないまま原告の従来の基本給の六〇パーセント相当額を賃金名目で支払うこととし、そのとおり実行した。被告は、平成四年五月一日、原告の退職時期を同年四月三〇日として計算した退職金六五六万三五二四円(但し、所得税等の控除による差引支給額は六二七万八三二四円)を含む六八九万七〇四三円を原告の銀行口座に振込送金した。原告は、平成四年六月、三橋人事部長に対し、再就職先が見つからず、一旦失業するとますます再就職が難しくなるので何とかして欲しいとの相談をもちかけ、三橋人事部長は、原告の申出を受け、被告から原告に金銭を支払わず、原告に就労させることもしないが、社会保険関係のみ一か月間継続した形を整えることにより、原告の求職活動を支援することとした。なお、被告は、平成四年五月一四日、原告に対し、原告が同日現在被告に在職中であることを証明した在籍証明書を発行し(〈証拠略〉)、原告に関する雇用保険被保険者離職票の離職年月日は、平成四年七月三〇日と記載されており(〈証拠略〉)、被告管理部長内田一夫は、平成四年七月一六日、研究開発センターの従業員に対し、原告が平成四年七月三一日をもって被告研究開発センターを退職することを、電子メールで通知している(〈証拠略〉)。

(二) 退職日延期の合意の有無及び原告の請求の可否について検討する。

(1) 原・被告間には、退職時期延期についての明確な合意は、本件全証拠によるも認められない。また、本件合意書作成後における原・被告間の関係は、右(一)に認定したとおりであり、平成四年五月以降、原告の被告における就労の事実(なお、〈証拠略〉及び原告本人尋問において、原告は、被告から、ドレーク社に通勤することが被告に勤務することになると言われたとするが、原告のドレーク社における前記活動は、専ら原告の求職活動のためのものであって、被告の業務とは無関係であるから、これを被告の業務遂行と同視することはできない。)あるいは就労の予定が全く認められないことからすれば、右認定事実を基に、原・被告間に原告の退職時期延期の合意があったと推認することもできない。確かに、被告は、平成四年五、六月に、原告に対し基本給の六〇パーセント相当額の金員を賃金名目で支払い、同年七月まで原告の社会保険を継続させてはいたが、これは、単に、原告の再就職を容易にし、再就職先の決まらない原告の生活を助ける目的で、外形的に被告に在籍している形を残すと共に右の内容に限定して原告を経済的に援助していた恩恵的措置に過ぎないものと認められ、退職後における在職証明書の発行もその一環であり、離職票及び電子メールにおける原告の退職日の記載も形式的なものであり、退職日延期合意の存在を前提とした帰結であるとは認められない。

そうすると、雇用契約の存在を前提に、原告が、被告に対し、賃金等、賞与不足分及び退職金不足分の支払いを求める点は、いずれも理由がない。

(2) 仮に原告の退職時期が平成四年七月三〇日まで延期されたと解したとしても、原告が被告において就労していたのは平成三年一二月までであり、それ以降の原告は、被告に通勤せず、被告の労務も行わず、被告への復職も全く予定されていなかったのであって、原・被告間の関係は、就労と賃金の支払いとが対価関係にあったそれまでの通常の形態の雇用契約関係とは明らかに質的に変化するに至っている。このように、原・被告間の関係が、就労と賃金の支払いとの対価関係になく、雇用契約関係の実質を欠いている点に鑑みれば、遅くとも、本件合意書において退職日として合意された平成四年四月三〇日以降の原告は、就業規則、賃金規定及び退職金規定が適用対象者として予定している従業員とはいえず、就業規則二条、賃金規定一条及び退職金規定一条にいう「雇用条件が特殊な者(もの)」として、右就業規則等の適用を受ける立場にはないと解され、また、右就業規則等の規定に基づき原・被告間で締結された個別的契約の効力も同日以降は消失すると解するのが相当である。

そうすると、原告は、被告に対し、平成四年五月分及び同年六月分賃金相当額として支払いを請求できるのは、原・被告間の合意(前記認定事実によれば、原・被告間において平成四年三月下旬ないし同年四月ころ、被告が原告に対し、基本給の六〇パーセント相当額を支払う旨の黙示の合意が成立したと理解できる。)に基づく原告の従来の基本給の六〇パーセント相当額であり、これらが既に履行済みであることは当事者間に争いがなく、平成四年七月分賃金については、原告が被告に対し、請求しうる理由はない。住宅ローン利子補助は、(証拠略)及び弁論の全趣旨によれば、就業規則五五条に基づき、昭和六一年六月ころ、原・被告間において、被告が原告の第一勧業銀行融資による住宅ローンの利息の五〇パーセントを支給する旨の個別的合意を締結したことが認められ、また、通勤手当は、賃金規定一〇条により、被告から原告に支払われていたことが認められるが、いずれも平成四年五月以降の分については、原告が被告に請求しうる理由はなく、退職金については、同月以降を原告の在職期間として算定することはできない。賞与不足分の請求については理由がない。

(3) 以上のとおり、原告が、被告に対し、賃金等、賞与不足分及び退職金不足分の支払いを求める点は、いずれにしても理由がなく、その余の点については判断する必要がない。

二  争点2について

1  本件募集要領は、平成四年四月一日現在で満四五歳以上に達している従業員を対象に、募集人数を八名前後とし、募集の受付期間を平成四年七月一〇日から同年八月二一日までとし、退職を希望する従業員が所定の申込用紙に署名捺印した上、三橋人事部長宛に提出し、被告が右退職希望を正式に受理承認することにより、同要領による特別提示条件が適用されるとするものであり(〈証拠略〉)、被告と従業員間とで締結された雇用契約の合意解除の申込みの誘因たる性質を有するものであると理解できる。また、(証拠略)によれば、本件募集要領は、コダックグループの日本における被告以外の基幹会社である日本コダック株式会社、コダックイマジカ株式会社及び株式会社コダック情報システムズにおける人事上の歪みを解決する目的で実施されたものに、さほどその必要性が高くなかった被告が肩並べをする形で実施されたものであり、平成四年三月ころからその計画が現実化し、同年六月に退職者数、退職時期、退職割増金額等の具体的内容についての骨子が定まり、被告親会社である米国イーストマン・コダック社の最終的承認を得た上、同年七月九日に実施が最終的に決定され、翌一〇日、被告において三橋人事部長から正式に発表されたものであることが認められる。

2  右の事実関係を前提に債務不履行ないし不法行為の成否について検討する。

既に述べたように、原告は、本件募集要領が正式に発表された平成四年七月一〇日に先立つ同年四月三〇日には、既に被告を退職していたものである。また、仮に退職日延期の事実を認めたとしても、本件合意書は、退職日以外の退職合意及び退職条件等については、基本的に効力を有していると解される上、本件募集要領が発表された平成四年七月一〇日の時点では、被告は原告に対し、無就労のまま、原告の求めに応じて同年五月及び六月に従来の基本給の六〇パーセント相当額の金員を支給し、同年七月には、金員の支給はしないものの、社会保険関係を継続する便宜をはかっていたものである。右のような事情の下で、被告に、本件合意書による合意の解消を前提に、原告に対し、本件募集要領を告知すべき労働契約上の信義則等に基づく義務が存したとは認められない。また、これを行わないことが違法であるとか、被告の原告に対する退職勧奨が社会的相当性を欠いたものであるとも認められない。さらに、本件募集要領六項の特別提示条件は、前述のように、従業員による同要領による退職希望が被告に正式に受理承認されることにより初めて当該従業員に適用されるものであるが、原告が本件募集要領に基づく希望退職を、募集受付期間内に被告に対して申込んだとしても、既に退職の効果が生じ、あるいは仮に退職日延期の事実を認めたとしても右本件合意書による合意が存し前記のような関係が続いていた原告による右申込みを、被告が正式受理することが確実であったとは到底考えられず、したがって、本件募集要領を被告が原告に対し告知しないことにより、原告に損害が発生したとも認められない。その他の債務不履行ないし不法行為成立に関する原告の主張についても、本件証拠関係に照らし、理由があるとは認められない。

そうすると、債務不履行ないし不法行為の成立を前提に、原告が、被告に対し、早期退職割増金相当額、端数賞与相当額及び有給休暇残日数補償金相当額の支払いを求める点はいずれも理由がなく、その余の点については判断する必要がない。

(裁判官 合田智子)

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